1961年(昭和36年)1月
日本政府派遣医師団の第一陣が到着する

 

1961年1月28日、日本政府派遣医師団の第一陣が沖縄に到着しました。

 

沖縄からの要望に応えて、沖縄の無医村に日本政府から派遣されてきた医師たちで、琉球政府の広報誌『琉球のあゆみ』(1961年2月号)では、那覇ふ頭における歓迎の様子が伝えられています。

 

13名の医師たちの赴任地は、南大東村、座間味村、伊平屋村ほかとなっています。

『琉球のあゆみ』(1961年2月号)

 

1961年(昭和36年)2月
第3代高等弁務官にキャラウェイ中将が就任する

 

1961年2月16日、第3代高等弁務官にポール・W・キャラウェイが就任しました。

 

右は、3月10日に行われたキャラウェイ高等弁務官の「歓迎パーティー順序」です。「余興」として空手や琉舞のプログラムが組まれています。

 

  

  『儀式行事に関する書類』 (R00000539B)

 

【関連記事】資料紹介> 儀式及び褒章に関する書類(3)キャラウェイ高等弁務官の歓迎パーティー

 

1961年(昭和36年)7月
行政府において文書の左横書きが実施される

 

1961年7月1日から、行政府において文書の左横書きが実施されました。

 

琉球政府の広報誌『琉球のあゆみ』(1961年7月号)では、左横書き実施のねらいについて、「事務処理の合理化と能率化を図り、行政事務の円滑な運営を期するため」と記されています。

 

文書の左横書きの実施については、琉球政府発足時から議論されていたとのことで、本土と歩調を合わせるためにも検討が重ねられてきました。

 

実施にあたって、文書事務を処理するために使用する起案用紙について左横書きのものを新設することや、左横書きの場合のふりがなのつけ方や数字の書き方なども説明されています。

『琉球のあゆみ』 1961年7月号

 

 

1961年(昭和36年)7月
6月22日を「慰霊の日」とする

 

1961年7月24日、琉球政府立法「住民の祝祭日に関する立法」(1961年立法第85号)が公布され、6月22日を「沖縄戦の戦没者の霊を慰め、平和を祈る」ための「慰霊の日」と定めました。

 

『住民の祝祭日に関する立法 立法 さ-60』(R00160752B)

 

同法で定められた祝祭日は次のとおりです。

元日(11日)、成人の日(115日)、春分の日(春分日)、琉球政府創立記念日(41日)、天皇誕生日(429日)、こどもの日(55日)、母の日(5月第2日曜日)、慰霊の日(622日)、お盆の日(旧暦715日)、としよりの日(915日)、秋分の日(秋分日)、体育の日(10月第2土曜日)、文化の日(113日)、勤労感謝の日(1123日)

 

なお、「住民の祝祭日に関する立法」は1965年に改正され、「慰霊の日」は6月23日に改められました。

 

【関連記事】資料紹介> 儀式及び褒章に関する書類(2)「慰霊の日」

 

 

1961年(昭和36年)8月
琉球政府行政組織法の施行による行政機構改革がなされる

 

1961年8月1日、琉球政府行政組織法(1961年立法第100号)が施行され、行政機構改革がなされました。

 

『琉球のあゆみ』1961年7月号の「行政機構改革について」です。

「現在、政府の行政事務は一房九局からなる行政事務部局と、各種行政委員会によつて所掌されているのであるが、現行の制度には、その運営上幾多の欠陥が見受けられるので、これらの機関を整序して、政策立案部門と執行部門に分け、前者には、計画局を新設し、後者には、官房的性格を有する内務局外七局と各種の庁、部、委員会を配し、行政を執行運営することによつて、その欠陥を補うこととしている」とあります。

 

 

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1961年(昭和36年)8月
公営住宅法が公布される

 

1961年8月16日、公営住宅法(1961年立法第110号)が公布されました。

 

『琉球のあゆみ』1963年6月号の「公営住宅建設の青写真」は、住宅不足に対処するための施策を振り返り、公営住宅法の意義を述べた記事です。

 

まず、1946年から49年にかけて、当時の沖縄民政府がテント張り・茅葺の「標準家屋」と呼ばれる規格住宅を供給し、次いで、1950年に琉球復興金融公庫(復金)が創設され、「多くの恒久的な融資住宅が建設される」ようになりました。

1959年には琉球開発金融公社がそれを引き継ぎ、「住宅事情の緩和に大きい効果をあげ、個人の持家を促進」しました。

 

そのうえで、公営住宅法は、個人の責任で解決されるべきものとされていた住宅問題を、政府施策として取り上げた意義があると述べています。

 

また、公営住宅は「低額所得層の住宅難解消を目的とする」ものであることから、入居者の収入について基準があることなどが説明されています。

琉球のあゆみ 通巻47号(第6巻6号) やさしい政府だより 1963年6月号

 

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歴史年表 > 1950年4月:琉球復興金融基金(復金)が設立される

歴史年表 > 1959年10月:琉球開発金融公社が設立される

歴史年表 > 1966年9月:琉球土地住宅公社が設立される

歴史年表 > 1968年8月:住宅建設資金融通法が公布される

 

 

1961年(昭和36年)10月
糸満町と兼城村、高嶺村、三和村が合併する

 

1961年10月1日、糸満町と兼城村、高嶺村、三和村が合併し、新たな糸満町が誕生しました。

 

合併に先立ち、「糸満町兼城村高嶺村三和村合併促進協議会」が結成され、合併の形式や役所の位置などが話し合われました。

 

この合併から10年後の1971年12月1日には、糸満町は糸満市となります。

『市町村合併に関する書類 糸満町・兼城村・高嶺村・三和村 1961年度』(R00002618B)

 

【関連記事】 歴史年表 > 1971年12月:糸満町が糸満市となる

 

 

1961年(昭和36年)12月
具志川の川崎に米軍ジェット機が墜落する

 

1961年12月7日、具志川の川崎に米軍のジェット機が墜落しました。

 

中部振興会によるキャラウェイ高等弁務官宛ての「ジェット機墜落事故に関する決議」には、「死者二名、重軽傷四名を出し全焼家屋三棟及損害家屋数棟が焼かれ農作物を焼失した一大不祥事」と、その被害の様相が記されています。

 

また、この2年前には宮森小学校に米軍ジェット機が墜落して多数の死傷者を出しており、「悲哀の涙と惨事の悪夢から未だに覚めきらぬ時」に再び起きた墜落事故について、「沖縄住民に与えた精神的ショックは実に大きく殊に軍事施設や演習場に近接する中部地区住民の不安と恐怖は益々増長するばかりであります」とも記されています。

『雑書(陳情書に関する書類) アメリカ合衆国軍人軍属等の不法行為』(R00028794B)

 

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