1968年(昭和43年)1月
琉球政府立法(民立法)による司法制度がスタートする

 

1968年1月1日、琉球立法院が制定した裁判所法(1967年立法第125号)が施行されました。

それまで、琉球政府の司法府であった琉球民裁判所は、米国民政府布告第12号「琉球民裁判所制」をはじめとする米国民政府(USCAR)の布告等で定められたものでしたが、裁判所法という琉球政府立法(民立法)にもとづく司法制度がスタートしたのです。

 

裁判所法による新しい司法制度では、それまでの琉球上訴裁判所は琉球高等裁判所に、巡回裁判所は那覇地方裁判所に、治安裁判所は簡易裁判所に名称を改め、また家庭裁判所が独立しました。
『裁判所法 立法 さ-09』(R00160673B)

 

 

1968年(昭和43年)7月
具志川村が具志川市となる

 

 

 

1968年7月1日、具志川村が具志川市となりました。

 

具志川村の市昇格にともなう「行政主席談話」です。

「新生具志川市がこれを契機に益々、行政、財政の能力を高め、住民福祉の向上を図りながら、変せんする社会情勢に十分対応できる体制を確立してほしい」と述べています。

『市昇格に関する書類 1968年07月 具志川市』(R00002658B)

 

1968年(昭和43年)8月
甲子園で興南高校がベスト4に輝く

 

1968年8月、興南高校が甲子園で県勢初の準決勝に進出してベスト4に輝き、「興南旋風」を巻き起こしました。

 

8月31日、那覇港埠頭では帰沖したチームの歓迎式典が実施されました。

 

 

『興南高校野球チーム歓迎式書類』 (R00000536B)

【関連記事】
資料紹介 > 儀式及び褒章に関する書類(1)興南高校野球チーム歓迎式
沖縄県公文書館 > あの日の沖縄 > 1968年8月31日 興南高校野球部が甲子園から凱旋

 

1968年(昭和43年)11月
初の主席公選で第5代行政主席に屋良朝苗が当選する

 

1968年11月10日、第5代行政主席に屋良朝苗が当選しました。

 

琉球政府行政主席の最終的な任命権はそれまで米国民政府が掌握していましたが、このときはじめて住民が主席を直接選出する主席公選が実現しました。右は、初の公選主席となった屋良による就任あいさつです。

 

屋良朝苗は、1968年12月1日から1972年5月14日まで行政主席を務め、1972年5月15日の日本復帰と同時に、沖縄県知事になりました。

  『主席メッセージ 1968年~1969年』(R00001389B)

 

1968年(昭和43年)11月
第8回琉球立法院議員選挙が実施される

 

1968年11月10日、琉球立法院議員の第8回総選挙が行われました。

 

この選挙では、選挙権の要件が「琉球住民」から「日本国民」に拡大され、有権者数は515,246人、投票者数は459,194人で投票率は89.12%でした。

 

また、同日には、それまで米国民政府が最終的な任命権を握っていた行政主席を住民が直接選挙で選ぶ行政主席選挙(主席公選)も実施され、沖縄現地だけでなく日本からも大きな注目を集めました。

『選挙結果調 立法院議員 行政主席 群島知事 群島議会議員 1969』

 

1968年(昭和43年)11月
B52戦略爆撃機が墜落する

 

1968年11月19日、嘉手納基地から出撃した米軍のB52 戦略爆撃機が墜落、炎上しました。

 

 

琉球立法院は「B52戦略爆撃機の墜落事件に対する抗議と同機の即時撤去を要求する決議」を可決し、これに抗議しました。

 

同決議では墜落当時の状況が、「出撃のため離陸した直後、米軍爆弾倉庫地帯の近くに墜落し、同機の抱えていた爆弾とともに大爆発を起し、嘉手納村民と附近の住民を恐怖のどん底に落し入れ、屋良小学校をはじめ、附近の民家などに多大な損害を与えた」と説明されています。

 

また、「沖縄がB52爆撃機の出撃基地として使用されることに断固反対し、同機の墜落事故に対し厳重に抗議するとともに、同機の即時撤去と沖縄からの一切の戦争行為を即時取り止めるよう強く要求する」とあります。

『決議文・要請文 1969・1970年』(R00000715B)

 

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