1968年(昭和43年)1月
琉球政府立法(民立法)による司法制度がスタートする

 

1968年1月1日、琉球立法院が制定した裁判所法(1967年立法第125号)が施行されました。

それまで、琉球政府の司法府であった琉球民裁判所は、米国民政府布告第12号「琉球民裁判所制」をはじめとする米国民政府(USCAR)の布告等で定められたものでしたが、裁判所法という琉球政府立法(民立法)にもとづく司法制度がスタートしたのです。

 

裁判所法による新しい司法制度では、それまでの琉球上訴裁判所は琉球高等裁判所に、巡回裁判所は那覇地方裁判所に、治安裁判所は簡易裁判所に名称を改め、また家庭裁判所が独立しました。
『裁判所法 立法 さ-09』(R00160673B)

 

 

1968年(昭和43年)3月
日米琉諮問員会が発足する

 

1968年3月1日、高等弁務官に対する日米琉諮問員会が発足しました。

 

 

 

同諮問委員会は、琉球政府代表、日本政府代表、米国政府代表の三者からなり、沖縄の日本復帰に備えて、本土との一体化を進めるための各種の勧告を行いました。

 

『守礼の光』113号(19686月)の「発足した高等弁務官諮問委員会」では、196711月の佐藤・ジョンソン会談で日米琉諮問委員会の設置が決まった経緯や、各政府代表の経歴などが紹介されています。

守礼の光 1968年06月』(U00000470B)

 

 

1968年(昭和43年)5月
日本政府沖縄事務所が設置される

 

1968年51日、日本政府沖縄事務所が設置されました。

 

前身の那覇日本政府南方連絡事務所が琉球諸島における米国との連絡役を担ったのに対し、日本政府沖縄事務所は、米国側との協議機能をもつようになり、復帰に備えて本土との一体化を進めていきました。

 

沖縄の日本復帰が決まると、日本政府沖縄事務所は、復帰準備に関わる各種事務や調査を担いました。

 

1970年312日付の日本政府沖縄事務所内部訓令「日本政府沖縄事務所における復帰準備推進班の編成について」では、同事務所に復帰準備推進班を編成し、「総理府特別地域連絡局の関係各班および琉球政府復帰対策室の関係担当官と連絡調整をはかって、復帰準備に必要な調査、検討を行なう」としています。

例規に関する書類 1970年』(R00000328B)

 

【関連記事】

歴史年表 > 19527月:那覇日本政府南方連絡事務所が設置される

資料紹介 > 『本土法適用に関する準備措置』ができるまで

 

 

1968年(昭和43年)7月
具志川村が具志川市となる

 

 

 

1968年7月1日、具志川村が具志川市となりました。

 

具志川村の市昇格にともなう「行政主席談話」です。

「新生具志川市がこれを契機に益々、行政、財政の能力を高め、住民福祉の向上を図りながら、変せんする社会情勢に十分対応できる体制を確立してほしい」と述べています。

『市昇格に関する書類 1968年07月 具志川市』(R00002658B)

 

1968年(昭和43年)8月
住宅建設資金融通法が公布される

 

1968年8月15日、住宅建設資金融通法(1968年立法第131号)が公布されました。

 

同法は、住宅困窮者に対し、住宅建設に必要な資金を長期かつ低利で融通することを目的としたものです。

 

『琉球のあゆみ』1968年6月号の「”一世帯一住宅”の実現をめざして 住宅建設資金融通法を立法勧告」は、同法を紹介した記事です。

 

これまで「低所得者のための公営住宅法(1961年)、都市勤労者のための琉球土地住宅公社法(1966年)を制定し、住生活の改善をはかってきた」としたうえで、住宅建設に必要な資金を長期かつ低利で融通する住宅建設資金融通制度が確立されれば、「政府の住宅施策は、すでにスタートしている公営住宅法、および琉球土地住宅公社とともに三本の柱が整うことになり、住宅事情の改善に大きく寄与する」と述べられています。

琉球のあゆみ 通巻93号(第11巻5号) 1968年6月号

 

【関連記事】

歴史年表 > 1961年8月:公営住宅法が公布される

歴史年表 > 1966年9月:琉球土地住宅公社が設立される

 

1968年(昭和43年)8月
国民年金法が公布される

 

1968年8月21日、国民年金法(1968年立法第137号)が公布されました。

 

すでに公務員や教師には年金の制度があり、また会社や工場に勤めている人たちを対象に厚生年金制度がつくられました。国民年金は、厚生年金保険の対象とならない農林業や漁業、自営業、5人以下の職場で働く人たちなどが加入するものです。

 

琉球政府の広報誌『琉球のあゆみ』1968年10月号に、「明るいくらしをみんなのものに 国民年金制度がスタート」という記事が掲載されています。

 

「国民年金制度は、ほかの年金の対象とされていない人たちが加入して、老人となったときや、身体障害者になったとき、または、生活の中心であった主人に死に別れたときなどに年金を支給する制度で、これによってすべての住民が年金をもらえるようになるわけです」と解説しています。

琉球のあゆみ 通巻96号(第11巻8号) 1968年10月号

 

【関連記事】歴史年表 > 1968年8月:厚生年金保険法が公布される

 

1968年(昭和43年)8月
厚生年金保険法が公布される

 

1968年8月21日、厚生年金保険法(1968年立法第136号)が公布されました。

 

琉球政府の広報誌『沖縄のあゆみ』1968年11・12月号に、「厚生年金保険制度 労働者の生活安定と福祉向上を図る」という記事が掲載されています。

 

「厚生年金保険制度は、加入者が年をとって働けなくなったようなとき、あるいは病気やけがをしてからだに障害が残って働くのに制限があるとき、または一家の大黒柱を失った遺族に対して生活が苦しくならないように、年金保険のシステムによって生活の保障をし、加入者や遺族の生活の安定をはかるしくみ」と説明しています。

沖縄のあゆみ 通巻97号(第11巻9号) 1968年11・12月合併号

 

【関連記事】歴史年表 > 1968年8月:国民年金法が公布される

 

1968年(昭和43年)8月
甲子園で興南高校がベスト4に輝く

 

1968年8月、興南高校が甲子園で県勢初の準決勝に進出してベスト4に輝き、「興南旋風」を巻き起こしました。

 

8月31日、那覇港埠頭では帰沖したチームの歓迎式典が実施されました。

 

 

『興南高校野球チーム歓迎式書類』 (R00000536B)

【関連記事】
資料紹介 > 儀式及び褒章に関する書類(1)興南高校野球チーム歓迎式
沖縄県公文書館 > あの日の沖縄 > 1968年8月31日 興南高校野球部が甲子園から凱旋

 

1968年(昭和43年)10月
琉球政府福岡事務所が開設される

 

1968年10月8日、琉球政府福岡事務所が開設されました。

 

開所式における行政主席のあいさつです。

 

「福岡は九州における首都としての中枢的な役割を果しておりますし、更に終戦後の沖縄県人の救済のための事務所が設置されたことや、日本全国の沖縄県人の戸籍簿が福岡法務支局に保管されていること、又、現在では、結核患者の療養並びに心臓疾患児の受入れ等、沖縄と福岡は各面において深い関係がある」と述べています。

『福岡事務所開所式における行政主席のあいさつについて 1968年』(R00001535B)

 

 

1968年(昭和43年)11月
初の主席公選で第5代行政主席に屋良朝苗が当選する

 

1968年11月10日、第5代行政主席に屋良朝苗が当選しました。

 

琉球政府行政主席の最終的な任命権はそれまで米国民政府が掌握していましたが、このときはじめて住民が主席を直接選出する主席公選が実現しました。右は、初の公選主席となった屋良による就任あいさつです。

 

屋良朝苗は、1968年12月1日から1972年5月14日まで行政主席を務め、1972年5月15日の日本復帰と同時に、沖縄県知事になりました。

  『主席メッセージ 1968年~1969年』(R00001389B)

 

1968年(昭和43年)11月
第8回琉球立法院議員選挙が実施される

 

1968年11月10日、琉球立法院議員の第8回総選挙が行われました。

 

この選挙では、選挙権の要件が「琉球住民」から「日本国民」に拡大され、有権者数は515,246人、投票者数は459,194人で投票率は89.12%でした。

 

また、同日には、それまで米国民政府が最終的な任命権を握っていた行政主席を住民が直接選挙で選ぶ行政主席選挙(主席公選)も実施され、沖縄現地だけでなく日本からも大きな注目を集めました。

『選挙結果調 立法院議員 行政主席 群島知事 群島議会議員 1969』

 

1968年(昭和43年)11月
B52戦略爆撃機が墜落する

 

1968年11月19日、嘉手納基地から出撃した米軍のB52 戦略爆撃機が墜落、炎上しました。

 

 

琉球立法院は「B52戦略爆撃機の墜落事件に対する抗議と同機の即時撤去を要求する決議」を可決し、これに抗議しました。

 

同決議では墜落当時の状況が、「出撃のため離陸した直後、米軍爆弾倉庫地帯の近くに墜落し、同機の抱えていた爆弾とともに大爆発を起し、嘉手納村民と附近の住民を恐怖のどん底に落し入れ、屋良小学校をはじめ、附近の民家などに多大な損害を与えた」と説明されています。

 

また、「沖縄がB52爆撃機の出撃基地として使用されることに断固反対し、同機の墜落事故に対し厳重に抗議するとともに、同機の即時撤去と沖縄からの一切の戦争行為を即時取り止めるよう強く要求する」とあります。

『決議文・要請文 1969・1970年』(R00000715B)

 

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