太平洋戦争末期の1945年、アメリカ軍は3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸すると同時に、沖縄における日本の行政権と司法権の停止、そして占領の開始を宣言する「ニミッツ布告」を公布しました。上陸したアメリカ軍は、日本軍と地上戦を繰り広げ、多くの住民がその犠牲となりました。そして、生き残った住民のほとんどは、米軍が各地に設置した民間人収容所に入れられました。
太平洋戦争における日本の降伏を伝える玉音放送が日本本土で流れた1945年8月15日、すでにアメリカ軍の占領下にあった沖縄では、軍政府の招集により住民代表者会議が民間人収容所で開催され、5日後の8月20日、軍政府の諮問機関として沖縄諮詢会が発足します。そこから戦後沖縄の住民による自治活動がスタートします。
1952年4月、「サンフランシスコ平和条約」が発効され日本は主権を回復しますが、沖縄は引き続きアメリカの施政権下に置かれることになり、アメリカ軍部が沖縄に設置した琉球列島米国民政府(USCAR)の下部組織として琉球政府が設立します。
琉球政府は、それまで群島別に設置されていた住民側の統治機構に代わって、全琉統一機構として設置され、司法、立法、行政機能を備えた政府でした。しかし、米国民政府は琉球政府の決定を破棄する権限を持っていたため、琉球政府の自治権は制限されたものでした。
終戦から復帰までの27年間、沖縄諮詢会から琉球政府までの住民側の各統治機構は、住民の食糧や住宅の確保にはじまり、戸籍や地籍の回復、言論出版などの諸権利の回復、軍用地や基地問題、主席公選、そして本土復帰。戦後復興から自治権拡大に向けて強力に取組み、主体的に多くの事を成し遂げていきました。