1959年(昭和34年)1月
メートル法の専用がはじまる

 

1959年1月1日、メートル法の専用がはじまりました。

 

すでに1953年の「計量法」(1953年立法第89号)で、長さの計量単位はメートル、質量の計量単位はキログラムなどと定められていたものの、尺貫法やヤードポンド法も併用されていました。しかし、1959年1月1日からは、メートル法を完全実施することになりました。

 

琉球政府の広報誌『広報琉球』1958年12月号の裏表紙です。

 

「私たちが永年なじんできました尺貫法、ヤード、ポンド法をすてて、メートル法を完全に使用しなければならない時がやつてきました」、「明年一月から行なわれるメートル法の完全実施には、無理なく円滑に切り換えができますように住民各位の積極的ご協力をお願いいたします」と呼びかけています。

 

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1959年(昭和34年)1月
土地借賃安定法が公布される

 

1959年1月13日、土地借賃安定法(1959年立法第1号)が公布されました。

 

この立法は、「土地の賃貸借に関し、適正な最高借賃を設定し、もって当事者間の衡平を保持し、かつ、経済の安定に資することを目的とする」ものです。

 

土地賃借安定法が制定された背景について、琉球政府の広報誌『広報琉球』1959年2月号の「法令の窓」には次のように記されています。

 

戦後沖縄では、土地の面積に対して人口が多く、また米軍が多くの土地を使用しているために土地が不足しており、「農耕地や宅地を必要とする者は、高額の借賃を支払って土地の賃借をすることになり、借地人がいちじるしく不利な立場」にありました。

 

また、軍用地料に対して民間の借賃が高いと、軍用地の所有者が他人から土地を賃借する場合に、自分の土地に支払われる軍用地料よりも他人から賃借する土地の借賃のほうが高額になります。

 

こうした状況は、「軍用土地所有者の問題だけでなく、ひいては琉球経済の一環としての安定及び全住民の経済生活を脅かすことになり、社会的に好ましくない現象を起すおそれがある」ことから、土地借賃安定法が制定されたとあります。

『広報琉球』1959年2月号

 

 

 

1959年(昭和34年)2月
高等弁務官布令第20号「賃借権の取得について」が公布される

 

1959212日、高等弁務官布令第20号「賃借権の取得について」が公布されました。

 

この布令で、米国がそれまで保有していた沖縄の土地に対する権利は、「不定期賃借権」か「5ヶ年賃借権」のいずれかに切り替えられました。

 

「不定期賃借権」は、「いかなる期間の制限も加えずに合衆国が使用を欲する期間、土地の上空、地下及び地上並びに(又は)当該土地の地上物件の完全、かつ、独占的使用、占有及び享有に及ぶ権利」で、事実上の土地の買い上げに等しいものでした。

 

同布令は、土地や物件を取得する際の手続きも定めており、日本復帰までの間、米国は同布令によって沖縄の土地を使用、収用しました。

 

『高等弁務官布令/High Commissioner Ordinance 1957年~1969年 第001号~第063号』(RDAP000030)

 

 

1959年(昭和34年)4月
世界一周観光船カロニア号が寄港する

 

1959年4月、世界一周中の観光船カロニア号が那覇に寄港し、150名が下船して沖縄を観光しました。

 

300人余りの観光客を乗せたカロニア号は、全長715フィート、幅90フィートで、当時としては、那覇港に接岸した船として戦前・戦後をつうじて最大のものでした。

 

琉球政府の広報誌である『広報琉球』1959年4月号では、「動く海のホテル『カロニア号』」と紹介されています。

『広報琉球』1959年4月号

 

1959年(昭和34年)4月
那覇の桜坂で火災が発生する

 

1959年4月25日、那覇の桜坂で火災が発生しました。

 

琉球政府の広報誌『広報琉球』(1959年6月号)によると、この火災で、「14棟24軒の家屋を灰燼にし、16万5百ドルの莫大な損害」をこうむりました。

 

「出火時間が朝であつて、軍民の消防車も逸早く現場に駆けつけていた」にもかかわらず大火となってしまった原因について、人家の密集地域であること、道路の幅が狭いために消防車1台しか消火活動ができなかったこと、高台地区である桜坂への送水能力がぜい弱であったことが挙げられています。

 

また、「那覇消防隊の言い分」では、道路の狭さに加えて、「彌次馬」の存在が消火活動の妨げになったことが指摘されています。「群集心理というのか、ご本人たちは、火消しの仕事を手伝うという任侠からでた行為かも知れないが、実際には徹頭徹尾消防の邪魔をしている結果にしかならない。この意味で、一般住民の最大の協力は、手だしをしてくれないこと」と記されています。

 

『広報琉球』(1959年6月号)

 

 

 

1959年(昭和34年)6月
宮森小学校に米軍ジェット機が墜落する

 

1959年6月30日、米軍の戦闘機が、石川市(現うるま市)の宮森小学校に墜落し、児童を含む17名の死亡者、200名を超える負傷者を出しました。

右は琉球立法院の会議録です。「石川事件対策特別委員会」が設置され、被害者や遺族への補償問題などを議論しています。

『会議録 石川事件対策特別委員会 第14回議会 定例 1959年閉会中継続審査1』(R00158307B)

【関連記事】
沖縄県公文書館 > あの日の沖縄 > 1959年6月30日 宮森小学校ジェット機墜落事故(石川ジェット機事件)
沖縄県公文書館 > あの日の沖縄 > 1959年6月30日 宮森小学校ジェット機墜落事故(石川ジェット機事件)の現場へかけつけるーあの日の屋良主席―

 

1959年(昭和34年)10月
琉球開発金融公社が設立される

 

1959年10月1日、琉球開発金融公社が設立されました。

 

高等弁務官布令第25号「Establishment of the Ryukyu Development Loan Corporation」に基づくもので、前身の琉球復興金融基金(復金)の資本を引き継ぎました。

 

『今日の琉球』1960年5月号の「復興金融から開発金融へ~琉球開発金融公社について」では、「従来の復金が解消して、新たに琉球開発金融公社が設立された」として、同公社の特徴を説明しています。

そのうえで、「公社資金は単なる援助金ではなく、必ず利子を附して返済しなければならない資金である」ことに注意を喚起しつつ、「今後生産業をおこし、企業の利潤を増大すると共に琉球経済の発展に貢献しようと計画されている方は、どうぞ遠慮なく公社においで下さるようおすすめしたい」と記されています。

今日の琉球 第04巻05号 1960年05月

 

【関連記事】歴史年表 > 1950年4月:琉球復興金融基金(復金)が設立される

 

1959年(昭和34年)10月
沖縄自由民主党が結成される

 

1959年10月、沖縄自由民主党が結成されました。

 

右は結党届です。松岡政保、新垣安助、西銘順治の3名が総裁代行委員に名を連ねています。

 

沖縄自由民主党の前身にあたるのは、琉球民主党(1952年8月結成)ですが、その総裁で、琉球政府の初代行政主席でもあった比嘉秀平は、1956年12月に急死してしまいます。

第2代行政主席に無所属の当間重剛が任命されると、党内は動揺、議席数も激減しました。次期行政主席の座を確保するべく保守勢力が結集し、1959年10月の沖縄自由民主党の結成に至りました。

『政党に関する書類 1958年 結党届9-1』(R00000462B)

 

 

1959年(昭和34年)11月
第3代行政主席に大田政作が就任する

 

1959年11月11日、第3代行政主席に大田政作が就任しました。

 

右は、ブース高等弁務官が次期主席に大田政作を任命すると発表したことを伝える琉球政府の広報誌『広報琉球』の記事です。また、明治37年生まれで国頭村出身、判事や検察官として活動した後、1957年に行政副主席に就任するなど、主要な経歴も記されています。

 

大田政作は、1964年10月30日まで行政主席を務めました。

  『広報琉球 通巻12号(第2巻10号) 1959年10月号』

 

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