沖縄県公文書館 復帰50周年企画展

軍用地政策の変遷

§2-2

軍事占領下の軍用地接収

米軍の基地建設は、旧日本軍の飛行場用地に留まらず、壮絶な地上戦を戦うかたわらで住民を強制的に収容所へ移動させ、その間に必要な土地を占領し、軍用地として使用しました。

終戦後の194510月には、軍指令「住民再定住計画及び方針」によって、収容所の住民の帰郷が許されますが、すでに軍用地となった土地は立入禁止区域になり、元の居住地に戻れない住民が多くいました。米軍はその救済措置として不要な軍用地を解放し、居住地を失った住民へ住居や耕作用地として割り当てました。この所有者と使用者が異なる「割当土地」 は、米軍の軍用地政策が要因となった特殊な土地問題の一つです。

その一方で基地の新規建設や拡張時には、必要な土地の居住者に立退きを命じ、農地は農作物撤去を命じて軍用地を接収し、さらに軍用地外の周辺地域に対しても建築や耕作等を禁止して住民の土地利用を制限しました。

1945年4月4日 楚辺収容所(読谷村)

沖縄本島で最初に収容された民間人

195111月 嘉手納飛行場

爆撃機の側で淡々と農作業する労働者

 

金武飛行場が実弾射撃演習場に

資料⑥ 陳情書1

市町村等が、現状(1946年から1949年まで)の問題とその改善を沖縄民政府に求めた陳情書等の簿冊。

作成:沖縄民政府知事官房秘書課、1946年~49

資料コード:R00000490B

「陳情書 米軍練兵場設置中止方に関する件」

米軍は日本降伏後に金武飛行場を一時放棄していたが、1947年に射撃場に使用する方針を立てた。この方針に対して金武村長や住民代表が中止を求めた文書。しかしながら、同年9月には射撃場が建設され、現在はキャンプ・ハンセンとして実弾射撃訓練が行われる数少ない基地になった。

 

小禄半島をバラ線で立入禁止に

資料⑦ 禁止命令その他雑書関係書類

米軍の命令(軍用地決定地域、住居立退、立入禁止、建築禁止、農耕禁止など)を沖縄民政府が各市町村長へ依頼して住民に周知した文書の簿冊。

作成:沖縄民政府総務部総務課、1947年~1948

資料コード:R00020584B

「住民立入禁止について」

1947年に小禄半島の先端地域(現在の那覇空港周辺)を立入禁止にする文書で、「飛行場用地境界内には住民は絶対に立入りしてはいけない」、「境界にはバラ線を張り巡らす」、「農作物は1110日までに収穫せよ」といった米軍の命令を沖縄民政府総務部長から小禄村長へ伝えた。

 

建築禁止令(一マイル制限)

資料⑧ 軍政府指令綴

米軍政府、南部琉球軍政府及び米軍政官府(八重山に置かれた南部軍政本部の出先機関)から、八重山民政府知事宛てに送られた指令文書の簿冊。

作成:八重山民政府総務部官房、1949

資料コード:R00000440B

「軍政府指令第17号 住民の建築物に関する件」

軍施設、附属住宅及び火薬類倉庫付近一帯に住民が出入りするのを防止するための指令で、「軍用地区の最も外側より一哩(マイル)の距離以内に於いては、(略)如何なる建物も建築してはならない」とし、住民の建築を制限した。

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