政党に関する書類(2)演説記録

『沖縄人民党に関する書類綴 1948年01月~』琉球政府行政主席官房庶務課(R00000475B)

総務局総務課「政党に関する書類」から、政党の弁士の演説記録をご紹介します。

「政党に関する書類」に含まれる政党の弁士の演説記録は、政党自ら記録したのではなく、警察などによって記録されたものです。

ここでは、「沖縄人民党に関する書類綴 1948年01月~」(資料コード:R00000475B)から、1947年に行われた沖縄人民党の演説記録をご紹介します。この記録は、塩屋警察署長から沖縄民警察部長宛に報告されたもので、演説内容はもちろんのこと、演説会の開催日時や場所、弁士の氏名、聴衆の人数や反応などが記されています。

「沖縄人民党演説会開催ニ関スル件」(1947年9月9日) 

 

兼次佐一

では、弁士別に演説記録を見てみましょう。

次に示すのは、当時、沖縄人民党に在籍していた兼次佐一の演説記録です。

1947年9月2日 於喜如嘉初等学校 

兼次は、住宅問題を取り上げるなかで、「我々は日本のために犠牲になつて今日の惨めな生活をして居るから我々が生きるためには日本政府は當然我々に無償で資材を與へて然る可きである」と訴えています。続いて兼次は沖縄議会ついて触れ、「今日の議員は我々の選んだ議員ではない。わけも分らず前から居残つた議員が二十名、をかしな具合で出来た五名を加へて二十五名で民政府の番犬に過ぎない。だから我々は公平なる各級の速かなる選挙の實施を圖りたいと思ふのである」と、議員の公選を訴えています。

 同上 

また、「我等は日本民族の名の下に日本の奴隷にしか過ぎなかつた。だがそんな事はさておいて今後の我等の生きる道を考へる時、我々は植民地民族として甘んじて行くか、又は世界に沖縄人ここに在りと示す可きであるか。そこが我々の考へて進む可き大きな問題である」との発言も記録されています。

 

瀬長亀次郎

この簿冊には瀬長亀次郎の二つの演説記録が確認できますが、次にご紹介するのは、奥間、辺士名初等学校で行われた演説会での記録です。

1947年9月3日 於奥間初等学校、同年9月4日 於辺士名初等学校

瀬長は日本軍国主義を批判しながら、次のように演説しています。

我々沖縄人の運命はロンドンに繋りニューヨーク、南京、東京に繋かつてゐる。即ち沖縄を支配する者は他国であることを思はねばならぬ。我々を支配するこの者を恐れることなく見極 め、我々の生きる道を求めねばならぬ。慎重に現実のこの姿を批判してこの中からのみ沖縄民族解放の道を見出さねばならぬ。

この発言に続いて、瀬長は人民自治政府の樹立、公職追放令の適用について訴えています。

 

この簿冊には、ここでご紹介した兼次、瀬長の演説記録のほか、屋部憲前田陳秀宮城清次郎らの演説記録が含まれています。

 

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