戦後公営バスのはじまり

『軍政府指令/Military Government Directive 1947年 第001号~第055号』琉球政府総務部渉外広報部文書課(RDAP000005)

戦争で壊滅した沖縄のバス事業は、1947年8月、沖縄民政府による公営バスの設置によって再開されました。

公営バスの経営や、民営へと移管していく様子を、軍政府による指令などから垣間見ることができます。

戦後公営バスの運行と経営

戦後初の公営バスは、1947年8月18日に知念地区(現南城市佐敷)で運行を開始しました。下の文書は、同年7月28日に出された軍政府指令第35号「沖縄バスの経営」(『軍政府指令/Military Government Directive 1947年 第001号~第055号』資料コードRDAP000005)です。

「Section Ⅰ General / 第一節 総則」では、「軍政府財政部長から予算の認可があったら貴官は直ぐに次の条項、規定、定款によってバスを経営するやう取計って貰い度い」とあります。

第二節以降では、資金の調達、経営者の選任職責、車両、職員、料金の徴収と徴収金の処置、事務所・停車場の位置、線路と運行表、運行、営繕について定められています。

例えば、「Section Ⅳ Equipment / 第四節 車両」には、2トン半トラック20台(うち16台を使用、4台は修繕中の予備車)を軍政府から提供するとあります。

また、「Section Ⅵ Collection of Fares and Disposition of Proceeds / 第六節 料金の徴収と徴収金の処置」は、料金は1マイルあたり大人30銭、5歳以上12歳以下の子ども15銭、乗組員は運転手2名(その内1名は運転と売上金の保管、もう1名は後方の階段で乗客に切符を売る)、毎日の総売上はその日の終わりの停車駅で出納係に返納し、沖縄民政府財政部出納課に供託するとするなど、日常的業務に関する事項まで詳細に規定されています。

また、当時は一般の乗客だけでなく、逮捕された刑事被告人も「護送車が得られない時は無料で乗せてやること」とあるほか、郵便物も公営バスによって輸送されていたことがわかります。

 

戦後最初期のバスの路線

同じく、軍政府指令第35号「沖縄バスの経営」によると、公営バスの本事務所は知念の沖縄民政府付近、支所は名護に置かれました。

1947年7月28日現在の予定路線図(Bus Diagram)をみると、知念と名護を起点に計7路線となっています。

1. 第一名護線 知念-南風原-那覇-嘉手納-名護
2. 第二名護線 知念-西原-胡差-古知屋-名護
3. 辺土名線 名護-塩屋-奥間-辺土名
4. 本部線 名護-渡久地-大井川-我部祖河-名護
5. 瀬嵩線 知念-西原-知花-久志-二見-瀬嵩
6. 与勝線 知念-南風原-首里-胡屋-安慶名-具志川-屋慶名
7. 島尻線 知念-南風原-那覇-糸満-港川-百名-知念

 

軍政府指令第35号「沖縄バスの経営」から2年後の1949年、沖縄民政府知事は「郵便逓送用専属車輌」の配置について、軍政府に陳情しています。公営バスによる郵便物の運送について、「郵便物の受授及保護上遺憾の点が多い」ことから、「郵便専属配車」の必要性を訴えるものでした。

ここには1949年11月23日現在の「バスダイヤ案内」が付いており、知念・名護ではなく、安里・名護を起点とした16路線が記載されています。

『沖縄民政府当時の軍指令及び一般文書 5-5 1949年』資料コードR00000439B

名護東線 安里-国場-與那覇-嵩原-胡差-登川-石川-金武-古知屋瀉原-許田-名護
名護西線 安里-牧港-嘉手納-高志保-仲泊-恩納-許田-名護
久志線 安里-首里-普天間-胡差-登川-石川-宜野座-瀬嵩-嘉陽
石川線 石川-栄野比-安慶名-胡差-高原-與那原-安里-牧港-嘉手納-高志保-仲泊-石川(循環線)
與勝線 安里-首里-普天間-胡差-安慶名-金武湾-屋慶名
金武湾折返線 安里-首里-普天間-胡差-安慶名-金武湾
胡差線 安里-胡屋-胡差-普天間-首里-安里
糸満線 安里-農連前(上りは牧志)-旭橋-小禄-糸満
糸満玉城線 安里-首里-南風原-外間前-稲嶺-冨里-具志頭-米須-糸満-小禄-那覇-安里
知念東風平線 安里-国場-津嘉山-東風平-具志頭-百名-志喜屋-佐敷-與那原-国場-安里
百名線 安里-那覇-国場-與那原-新里-親慶原-百名
宜野座線 安里-国場-與那原-嵩原-胡差-知花-石川-宜野座
本部半島線 屋部廻り 名護-屋部-渡久地-具志堅-仲宗根-伊差川-名護

今帰仁廻り 名護-伊差川-仲宗根-具志堅-渡久地-屋部-名護

辺土名線 名護-伊差川-源河-塩屋-大宜味-辺土名
平良線 名護-伊差川-大宜見-大保-平良
宜名真線 名護-伊差川-塩屋-大宜見-辺土名-宜名真

 

公営から民営へ

公営バスは、1950年4月1日、民営へ移管しました。

下の文書は、民営移管1年前の1949年4月、バス従業員代表・名護従業員代表が沖縄民政府知事に宛てた「公営バス民営移管について」(『陳情書1 1946年10月~1949年5月』資料コードR00000490B)です。

公営バスについて、「沖縄唯一の陸上旅客交通機関としてのバスの交通機能―その社会的、経済的、又は復興面に如何に重要な機能を発揮して来たかは何人も否定出来ない」、「全く人間に於ける血液にも等しく社会の血液とも言へる」と評価しつつも、「最っと能率的であり血液的な堅実な機能を充分発揮させる為め」、また「確固たる民政府税源を得る為め」、「機構を民営に切替へ乱脈を極めている沖縄陸上交通を調整するのが交通政策上特策であり、民企業の前進発達を将来するものと確信する」とあります。

ここには、公営バス創設当初からの業績や、民営に移管した場合の事業計画概略、民政府税源見込書、その他の参考資料が綴られています。また、事業所を、知念ではなく那覇におくべきであるとの見解を述べている、軍政府財政部長の諮問に対する回答書(1949年1月付)も添付されています。

その回答書では、戦前・戦後を通じて本島内の沖縄文化の中心、物資の集散地は那覇市であること、乗客の多くは那覇市にいるのに、いったん知念まで行かなければならないことは、「無駄な時間と経費を消費している」とし、営業所を那覇市に移せば、こうした不便が解消されて「沖縄復興を促進せしめることが出来る」とあります。

運行開始当初の公営バス路線が、知念を起点としていたのに対し、先にみた1949年11月時点の路線が、那覇を起点としたものへと変化した背景には、こうした意見があったものと思われます。

<参考文献> 杉山篤史「公営バス」『沖縄大百科 中巻』(沖縄タイムス社、1983年)

       杉山篤史「民営バス」『沖縄大百科 下巻』(沖縄タイムス社、1983年)

 

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