市町村の振興計画、合併及び名称変更に関する書類 (1) 1954年 那覇市の合併計画とその行方

『市町村合併に関する書類 首里市・小禄村・那覇市 1954年09月1日』琉球政府内政局行政課(R00002623B)

総務局行政部 地方課の「市町村の振興計画、合併及び名称変更に関する書類」から、1954年の那覇市の合併計画についての資料を紹介します。

「市町村の振興計画、合併及び名称変更に関する書類」は、総務局行政部地方課の所掌業務の一つであった市町村合併について作成、収受された文書です。そのなかから、那覇市、首里市、小禄村、そして真和志市をめぐる合併計画に関する文書をまとめた『市町村合併に関する書類 首里市・小禄村・那覇市 1954年09月1日』(資料コードR00002623B)をご紹介します。

 

戦後沖縄の「首都建設」

1954年の那覇市の合併計画は、那覇市、首里市、小禄村、真和志市を巻き込んだ市町村合併であると同時に、戦後沖縄の「首都建設」としての側面を持っていました。

次の文書は、1954年7月に、那覇市長から琉球政府行政主席宛に送られた「首里市及び小禄村を那覇市の区域に編入することについて申請」です。

合併の理由は、次のように記載されています。

琉球政府章典の第二条に依れば『琉球政府の首都は沖縄島の那覇とし、住民投票によるのでなければこれを変更することはできない』となって居り、首都の建設は那覇市が主体となって大きな視野の下に後世に到る迄、悔を残さないように充分比較検討すべきものが多くあると考えられる。云い換えるならば那覇市の都市計画の早期実現と隣接市村を包含しての新しい視野から拡大された計画の再編であらう」

「首都建設」という観点から、那覇市を主体としながら、その「隣接市村」― すなわち首里市、小禄村、真和志市― を那覇市に包含する必要性が記されています。

 

「首都建設基本計画案」

戦後沖縄の「首都建設」構想において、それぞれの自治体に与えられた具体的な役割は、次の「石川構想に依る首都建設基本計画案」に見ることができます。

それによると、那覇市を行政、産業、交通の中心地として、真和志市を慰楽、医療、墓苑、住居の中心地として、首里市を文教、社会、住居の中心地として、小禄村を交通、慰楽、観光、住居の中心地として位置付けていました。

このように構想された「首都建設」を実現するには、当時の那覇市域だけでは不可能であることから、那覇市、真和志市、首里市、小禄村が「共存共栄の実」を挙げることが期待されていました。

 

編入合併への違和

「首都建設」構想に対して、首里市、小禄村は、議会で那覇市への編入合併を可決しました。ただし、議会が編入合併を可決したとはいっても、編入合併に対する地域住民の違和感は決して小さなものではなかったであろうと思われます。

次の文書は、1954年7月17日に小禄村で開かれた村民大会の決議文です。

編入合併は「自由平等を基調とする地方自治体の権威を無視」するものであり、「首都建設の真意を歪めるものである」として、編入合併に反対の立場を明確にしています。この決議文は、琉球政府行政主席宛に送付されました。

 

合併計画の行方

真和志市の場合は、市議会も、市当局も、那覇市への編入合併に反対する見解を公然と表明しました。

次の文書は、1954年8月5日に真和志市が作成した「三市一村の合併実現勧奨につき回答」です。

あくまでも那覇市、真和志市、首里市、小禄村による「対等の合併」を主張する真和志市と、那覇市を中心とする「首都建設」を構想する那覇市との溝は埋まりませんでした。

 

こうした溝が埋まらないまま、琉球政府は、1954年8月17日に「首里市、小禄村の那覇市編入合併につき伺」を決裁しました。

琉球政府は、那覇市への編入合併に真和志市が含まれていないことについて、「誠に遺憾」としつつも、真和志市の決定を「いたずらに待って時機を逸することはできない」として、真和志市の「首都区編入」を「一時保留」し、「首里市、小禄村を編入合併すること首都建設面より万やむを得ないものであると考える」との結論に至りました。

1954年8月30日、琉球政府は、「首里市、小禄村を廃し、その区分を那覇市に編入する処分」を告示しました。戦後沖縄の「首都建設」は、1954年9月1日をもって、真和志市を除く、首里市、小禄村の那覇市への編入合併というかたちにひとまず落ち着くことになりました。

那覇市と真和志市が合併し、現在の那覇市が誕生するのは、1957年のことです。

 

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