市町村の振興計画、合併及び名称変更に関する書類 (3) 合併関係復命書

総務局行政部 地方課の「市町村の振興計画、合併及び名称変更に関する書類」から、合併関係復命書を紹介します。

市町村合併促進審議会が琉球政府に答申した合併計画に基づいて、琉球政府の職員は各市町村へ出張し、自治体の首長や議会議長などから市町村合併に関するヒアリングを行いました。1962年1月から1963年6月にかけての調査結果は、『合併関係復命書綴』(資料コードR00002612B)及び『合併関係復命書 宜野湾市・北中城村・中城村』(資料コードR00002617B)としてまとめられており、市町村合併計画に対する各自治体の反応が見てとれます。

 

石川市、恩納村、金武村、宜野座村

『合併関係復命書綴』(資料コードR00002612B)に収められる1962年7月24日「復命書」は、石川市、恩納村、金武村、宜野座村への調査結果がまとめられた文書です。それによると、石川市以外の自治体が合併に消極的であったことがうかがえます。

 

例えば、恩納村については、「宜野座村、金武村、石川市とは恩納岳の山岳地帯によってへだてられいるため、地理的、交通その他の面で不便を感ずる声が多く、村長は乗気ではない」「恩納村の場合は地域が長いので、北部と南部がそれぞれ近いところの町村(例えば北部は名護町へ、南部は読谷村へ)への合併希望はあっても、その他との合併は考えていない」といった意見が記されています。

宜野座村、金武村については、「旧金武村」としての合併を希望する意見が見られる程度で、むしろそれぞれの自治体の都市計画を優先させるべきであるとの意見が強いことがうかがえます。

調査員の所見の欄には、4市村のブロックは大き過ぎる、関係市村の関心が薄いなどとあり、「ブロックの再編が必要ではないか」と結論付けられています。

なお、恩納村への調査結果は、『合併関係復命書 宜野湾市・北中城村・中城村』(資料コードR00002617B)の1962年6月19日「出張復命書」でも見ることができます。

そこには、恩納村の地理的特徴に加えて、「合併は当村の分割を意味し、そこに難しい点もある」との恩納村関係者の意見も記されています。

 

宜野湾村、北中城村、中城村

宜野湾村、北中城村、中城村の合併ブロックの調査結果は、『合併関係復命書 宜野湾市・北中城村・中城村』(資料コードR00002617B)にまとめられています。北中城村と中城村が合併に前向きな態度を示す一方、宜野湾村は合併よりもむしろ市への昇格を優先させていました。

 

1962年1月25日「出張復命書」では、合併に関する懇談会の場であるにもかかわらず、宜野湾村は「市昇格に際しての人口の問題やその他の条件等、政府のハッキリした見解を聴きたい」「市昇格と合併の問題について、責任ある局長と課長との話合いをもちたい」と要望しています。

また、「政府が、市昇格を蹴った場合、合併させるためにやったのだと住民に誤解されて、合併問題が却ってこじれることになりはせんか」との琉球政府への意見も、市への昇格を優先する宜野湾村の方針がにじみ出たものと言えるでしょう。

1962年2月21日「復命書」においても、「市昇格が宜野湾村の当面の仕事であり、住民の世論であるので、早めに市昇格の書類申請をしてもらいたい」との要望を宜野湾村から受けたことが記されています。琉球政府の調査員は、宜野湾村が合併に踏切れない理由として、「現村長及び議会議員が、都市計画事業と市昇格を任期中に必ずものにして見せると公約した」ことを挙げています。

 

名護町、羽地村、久志村、屋部村、屋我地村

名護町、羽地村、久志村、屋部村、屋我地村の合併ブロックの調査結果は、『合併関係復命書 宜野湾市・北中城村・中城村』(資料コードR00002617B)の1962年2月10日「出張復命書」に見ることができます。それによると、「名護町を除く三村(羽地村、屋部村、屋我地村)は、合併問題については積極的」であり、「早く合併促進協議会を結成して、具体的話し合いを行いたい意向」を示していたと記されています。

 

 

その一方で、名護町は合併に消極的でした。その理由として、名護町長は、「合併すると同町としては、財政的に貧弱な農村部を背負うことになり、都市部(現名護町)の負担の増加が憂慮される」、「議会や町民の世論も未だはっきりしない」、「地域があまりにも広過ぎる感がする」などの見解を示しています。

 

また、この合併ブロック全体の状況として、「中心的存在にある名護町の動向がはっきりしない限り、どうにもならない」、「名護町は当局がこのような状態にあるので、一般住民の関心も極めて薄い」、そして「各町村でも、名護ブロックの合併には、久志村を除外した方がよい」との意見があったと記されています。

合併に対して、羽地村、屋部村、屋我地村が積極的な態度を、名護町は消極的な態度を示していましたが、残る久志村はどのような対応をとっていたのでしょうか。

 

久志村の方針については、『合併関係復命書綴』(資料コードR00002612B)の1962年8月2日「復命書」に見ることができます。久志村長は「議会で統一された意見」であるとして、「合併問題については全く考えていない」と述べつつ、「立地条件(山地、軍用地)からみて、太平洋岸に面した北部の一中心地としての村の経営計画を樹てる準備を進めている」と発言しています。

琉球政府の調査員は「全体としての状況」に、「合併計画(組み合せ)を再検討し、久志村を含めるかどうかについて考慮を払う必要がある」との所感を残しています。

 

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