1946~49年の往復文書(5)出版許可
1946~49年の「対米国民政府往復文書」(通称、往復文書)から、出版許可に関する文書を紹介します。
米国統治下の沖縄では、米国の沖縄占領政策にとって問題となる印刷物や文書の発刊が禁じられ、出版にまつわるさまざまな検閲制度が設けられていました。検閲に関する事件としては、1950年9月、沖縄人民党の機関誌とされていた『人民文化』の発刊停止が命じられたことがよく知られていますが(『対米国民政府往復文書 1950年 受領文書』資料コードR00165456B、444頁)、ここではそれより前の1946年と49年の往復文書から関連文書を紹介します。
出版許可に関する最初期の文書
『対米国民政府往復文書 1946年 発送文書』 (資料コードR00165445B)から、戦後最初期の出版許可に関する文書をご紹介します。
出版物に関する文書として最初に確認できるのは、1946年5月4日付の下の文書「Publication of the “Culture Magazine”」です。
ここでは、「新沖縄」(New Okinawa) 建設のためには、「世界文化についての十分な理解者」(a sufficient number of appreciators for world culture)が必要であり、それゆえに “Culture Magazine” を発行したいとあります。内容は、宗教、文学、美術などとなっていますが、具体的な発行者などの記載はありません。 |
次に登場するのは、「Publication of an Official Gazette, A Request for Your Approval of」と題された1946年7月18日付の文書で、沖縄民政府が『沖縄民政府公報』の出版許可を軍政府副長官宛てに申請したものです。
ここからは、軍政府のもとで機能した住民側の行政機構の公報であっても、出版許可制度のもとにあったことがわかります。
『沖縄民政府公報』の出版のために、米軍の情報宣伝機関紙である『うるま新報』の設備が使われること、発行頻度は必要に応じる(通常、1カ月に2回)こととされています。 |
1946年7月の上の文書の後、1947・48年の往復文書には、出版許可に関する文書はみられません。
民間の出版社に対する規則の制定
出版許可を申請する文書が続々と登場しはじめるのは、1949年になってからのことです。これには、出版社の営業や出版物刊行をめぐる規則を、軍政府が定めた状況が関連していると考えられます。
1949年2月14日の軍政府の文書「Regulations for Licensing and Operation of Information and Educational Business Enterprises」は、映画館や劇場、写真館、出版社など、情報と教育に関わる企業の免許や規則について取り決めたものです。
左画像のd項とe項が出版社に関する記載です。出版物の刊行前には、日本語と英語の原稿を添えて「軍政府および沖縄民政府から検閲を受けねばならない」とされています。また、右画像のh項には、これらの規則に従わなければ「refusal or revocation of license」(免許の拒否または取消し)に至るとあります。
上の文書は『対米国民政府往復文書 1949年 受領文書』(資料コードR00165451B)に収められています。以後、同簿冊には出版許可を申請する文書がいくつも出てきますので、続けて紹介します。
1949年の出版許可に関する文書
沖縄戦後史に大きな足跡を残した瀬長亀次郎から申請がなされた、『民衆』の出版許可をめぐる1949年6月23日付の軍政府の文書です。
次は、西銘順治による出版許可申請に関する文書です。「newspaper」とあるだけで誌名は書かれていませんが、『沖縄ヘラルド』の申請だと思われます。
最後は、沖縄婦人連合会の初代会長となった、武富セツらがかかわった季刊誌『女性』の出版許可申請に関する文書です。
いずれの文書にも、出版許可の申請書そのものは付いていないことが残念ですが、軍政府による出版物の検閲制度のもとでも、さまざまな言論活動の場や、報道の媒体を作り出そうとした沖縄の人々の姿が浮かんできます。 |
『対米国民政府往復文書 1949年 受領文書』(資料コードR00165451B)では、このほかにも出版許可申請に関する文書を見ることができます。「出版」をキーワードに検索してみてください。