戦後初期会議録

組織名
沖縄諮詢会
開催日
1945年12月24日 
(昭和20年)
会議名
軍民協議会 1945年12月24日 目録詳細 画像を見る
議事録
軍民協議会 〔疎開者・博物館・沖縄文化〕

  十二月二十四日(月)。
  午后一時半。
  出席  志喜屋、又吉、松岡、大宜見、平田、仲宗根、仲村、比嘉、糸数、當山、安谷屋の諸委員。
  公用他出 山城、前門の両委員。
  病欠  知花、護得久の両委員。
  軍政府 ワッキンス少佐。
協議事項
 軍政府
  志喜屋委員長の聴かれた、鹿児島に居る沖縄の疎開者は相当の待遇を受けて居るから心配する必要はない。昔の琉球列島の中最も被害の少い島から帰へし沖縄本島は総べて準備が出来てから考へて見ることにしよう。
  英和及和英辞書を布哇に注文してあるが未だ到着して居ない。
  ムーレー大佐の官邸の屏風は山田真山氏の代りに糸数氏が画く事になって居るが誰か其人を知って居るか。
 當山委員
  金城氏を紹介す。
 松岡委員
  糸数氏でよろしい。
 軍政府
  絵筆は石川市にあるや否や。
 比嘉委員
  私が持って居る(ワッキンス少佐の帰へる時進上す)。
 軍政府
  来週糸数氏の所に行くが其時持って行って見せたい(絵筆を)。
  今日沖縄に来て居る米兵の印象では首里那覇等の都会地や旧跡がなくて貧弱な所であると云ふ感じに打たれて居る。
  故に沖縄の認識を深めるために何かを講じたい。
  今は軍関係の者しか居ないが将来は米国の政治家や市民等が来るが彼等の人々に認識を深めなければならない。其方法として二つの案を有って居る。
  (1)は教学部(文教部)の建物と博物館を造ったが、其建物や庭を作らしたのは其の一つである。
  (2)博物館と庭は未完成だが之を完成させ、又沖縄の工芸品も加へたい。
  博物館が完成した時には其外に沖縄を紹介するものはないから之を以て沖縄の文化の形を整へて昔の文化を認識し又教育して行きたい。
  庭及建物も不完成とは思ふが沖縄文化を知らすには已むを得ないだらう。博物館に来て米兵が始めて庭や庭内にある池を見て認識を高めつゝある。
  海軍の高級将校が博物館を見たが沖縄文化に対し印象を深めた。
  之が完成した時は多くの人々に見せたい。
  米兵としては沖縄の将来について如何にすべきかと云ふ関心は持って居ない。
  沖縄の将来について関心を持つ人々は佐官将官以上の高級将校や貴衆両院の人々である。
  斯る高級将校や貴衆両院等の偉い人々は博物館で長時間ゆっくりとして観察する事は出来ない。故にムーレー大佐の官邸に沖縄の認識を深める方法を講じなければならない。ハナ(HANNA)と私(ワッキンス少佐)が軍政府の付近に沖縄の建物を見出した。
  柱はマキ、壁、天井等は杉材で造ってあるがあちこち被害があるが之を修理させて居る。
  庭も建物とバランスの取れるようである。
  ムーレー大佐の屏風は彼が持帰へるのではないから文化を物語る材料になる。
  其外指物、編物、提灯の如き類等もやって行きたいから暗示を与へて貰いたい。
  斯る物は博物館の帳簿に記録して置いて之を米国に持ち帰へるのではない。
  博物館は主として米兵に観覧させ、ムーレー官邸は高級将校等に紹介したい。
  仲宗根、又吉、當山の諸委員等は沖縄は食糧等も不充分であるのに何で斯ることに力を入れられるだらうと考へられるかも知れない。
  博物館及ムーレー大佐の邸宅の計画は軍政府の命令でもなく、軍政府でやれと云ふ事でもない之はハンナ大尉と私(ワッキンス少佐)との考でやって居るものである。
  ハナ大尉と私(ワッキンス少佐)は日本及支那の文化の程度も知って居る。沖縄の文化の程度も知らしめたい。
  沖縄の文化も此程度あったものだと知らしめたいのである。
  博物館とムーレー大佐官邸と中城城跡はあるが其外にはないものであるか。
 又吉委員
  首里城の絵を私が所持して居るから他日御覧に入れたい。
  早稲田大学の田辺氏が首里城及沖縄の民家の有名な家の写真を持って居る。
 仲宗根委員
  戦前の沖縄の文化、風俗、生活等を絵画にして博物館に備へたい。
 比嘉委員
  日本全国に県と比例して沖縄は国宝指定の多かった所であったから之も付加すると尚沖縄の文化が分ると思ふが。
 軍政府
  當山文化部長にやって貰いたい。
  文化を物語る文化史を設けたい。
  沖縄の文化を求める本を調べたい。尚沖縄にないものは日本にでも求めたい。
  沖縄に関する著書を調べて貰いたい。
 又吉委員
  現に調査しつゝあります。
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