戦後初期会議録

組織名
沖縄諮詢会
開催日
1945年12月22日 
(昭和20年)
会議名
軍民協議会 1945年12月22日 目録詳細 画像を見る
議事録
軍民協議会 〔東京視察報告〕

  十二月二十二日(土)午前九時半。
  出席  志喜屋、又吉、松岡、仲村、大宜見、仲宗根、比嘉、安谷屋の諸委員。
  公用他出 平田、糸数、當山、前門の四委員。
  護得久、知花両委員病欠。
  軍政府側 ローレンス大尉外一名。
ローレンス大尉東京の事情を視察し帰り、其報告を左の通り語る。
 往く時は水上飛行機で横須賀に着水す。
 東京には五日間の滞在であった。
 横須賀東京間の工場はやられて影も形もなかった。
 農村地区は空襲もなかった。
 工業土地は破壊されてしまった。
 工業地区から避難した住民は帰へって来て居るが焼残りの材木や鉄類等でバラックを作って居る。
 宮城の周りは被害はない。帝国ホテルも一部は残って居るが、今は米軍高級将校の宿所になって居る。
 宮城前の重要ビルデングは米軍の宿所になって居る。
 東京の人口は二百万程しか残って居ない。復興のため地方からの還元を勧誘して居る。
 目立つのは被服や履物がなく寒さに困って居る事である。
 味の素ビルで重役と会ったが話によると三年前から燃料がなく暖炉もないとの事である。
 食糧の輸送が不活発で困って居る。
 闇相場が盛んに行はれて居る。
 日本政府は米軍と此闇相場につき取締るべく相談して居るがどうにもならない。
 日本は自給自足しなければならないから米国としてもどうする事もできない。
 日本と沖縄とを比較した場合沖縄は幸福である。
 何故なれば沖縄は最低の生活は米国により保証され気候は温暖であるからである。
 冬に向って来るから生産も後数ヶ月を要するだらう。
 国際会議の終るまで日本としては輸出する事が出来ないだらう。
 日本は連合国以外の国とでなければ輸出入を計る事は出来ぬだらう。
 若し日本が連合国に輸出しても輸入を計ることは出来ない。何故なれば戦争の賠償に充当されるからである。
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